(仮)

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すこぶる調子が悪い

タイトルの通り、すこぶる調子が悪いです。集中力も全然無いし、やる気もないです。週に200話分くらいはマンガを読んでたんですが、最近は全然読めてません。難しい哲学書を読むやる気が無いのならまだしも娯楽の漫画の頁をめくる指すら重く固まっているのです。文章の調子も非常に悪いので非論理的で支離滅裂で理解不能なものになっていると思います。ごめんなさい。


最近はTwitterを眺める、寝る、ソシャゲ、といったことの繰り返しです。アニメはちょこちょこ見てるという感じですね。いづれもただ眺めるだけの受動的な活動です。『華氏451度』のディストピアで、ひもすがら三面モニターのテレビを眺め、イヤホンでラジオを聴き、薬物に溺れる、そんなミルドレッドを昔なら哀れんだかもしれませんが、今はまるで自分のことのように感じられ、乾いた笑いがこぼれるのみです。モンターグがミルドレッドに「出会った日のことを覚えているか」と尋ねると彼女はどうしても思い出せず、そしてモンターグ自身も思い出すことができなかったというエピソードがあったかと思います。僕も最近、あとであれしよう、と思い浮かべていたことをすぐに忘れてしまったり、キャラクターの名前が出てこなかったりということばかりです。消費社会に飼い慣らされ、受動的な娯楽に溺れた僕も彼らと変わらないのだろうと思うのです。きっとこのまま惰性で生きていればだんだん考えることをやめ、ただ娯楽の海にぷかぷか浮かび、そんな生ける屍と化すのです。

では、どうすれば善き生を実現できるのかと考えれば、もっと能動的な娯楽――いわゆる趣味――をもつなり、もっともっと自らの人生に積極的に関与しようとすべきなんでしょう。まあ、ここまで語りながらも夢物語としか思えません。服を買いに行くための服が無い現象のように、積極的になるための積極性が無いのです。ちなみに趣味の話に戻りますと、僕は趣味が無い人間だと思います。趣味の定義を考える際、先程から述べている「能動性」が1つの判断基準になると僕は考えています。アニメを例に考えると、ただアニメを鑑賞するだけの行為を趣味とみなすことはできないと僕は考えます。なぜならばそこに能動性が無いからです。一方で、アニメを鑑賞するだけでなく、イベントに参加したり、二次創作を作ったりするのならば、十分に趣味――能動的活動――と言えると思うのです。アニメ鑑賞も、何度も鑑賞して、考察をして、それをブログなどで言語化するというレベルまで行えば趣味でしょう。結局のところ、自分は全てにおいて中途半端なのであり、何も趣味と呼べるレベルに達していないのです。こんなことを言うと初心者でも趣味は趣味だと反論されそうですが、そうではないのです。レベルに達していないというのは実力が不足している(つまり、初心者である)ということではなく、能動性の程度が趣味と呼べる水準に達していないということを意味しています。足りないのは実力ではなく、情熱です。


本当に自分という人間が嫌いです。
本日はこのあたりで終わりにしたいと思います。お読みいただきありがとうございます。

雑記

 自分の書いた文って読み返してみると気持ち悪いですよね。今日は構成を考えながら文を仕上げる気力もないため、バラバラに話が色々なところに飛びます。オムニバス形式です

 

 さて、最近、自分はADHDの傾向があるな~と感じ始めています。病院に行かないことにはわかりませんが、診断されるレベルでなくとも傾向はあると確信しています。

 自分の特性を把握したうえでライフスタイルを構築することの大切さをひしひしと感じており、年を重ねるごとにその気持ちはより強固なものになりつつあります。

 あとアニメやゲームのキャラを見てると「これ現実なら確実に障害じゃねーか」と思うことがあります。現実なら、の話ですよ。アニメの中では障害じゃないですが、現実にこんな奴いたらそういう扱い受けるだろうなー、ということです。逢坂大河と桜ねねは確実にそうです。僕は確信しています。ただキャラクターは凡人だとおもしろくないので特徴のある性格にしなければないので特殊な性格になるのは当たり前と言えば当たり前です。

 また話は飛びます。最近精神の波の揺らぎが非常に激しいです。揺らぎというよりうねりの方が的確かもしれません。今は不思議と気分が良いのでブログを書いているのです。これがもっと酷くなると躁鬱になるんでしょうね。。

 再話飛。もう略します。僕は昔からお仕事漫画やアニメが好きでした。働きマンSHIROBAKO、NEW GAME、舟を編む、じしょへん、などなど数えきれないほどです。人によってはバクマン宇宙兄弟、左利きのエレンも該当するようです?宇宙兄弟は違う気が…。特に好きなことに熱中する姿や困難を仲間と乗り越える姿に子供時代はときに感動したり、ときに憧れたりしたものです。もちろん現在も好きです。しかし、自分が成人し、当時憧れたマンガのなかの「大人」に年齢的には近づきながらも、内面では何も成長できていません。理想と現実の乖離です。僕はマンガのなかにいたあのカッコいい「大人」たちにはなれません。

 

 辛くなったのでここでやめます。

井蛙の幸福

 
 「井の中の蛙  幸せ」
 
 Twitterの検索窓にこのワードを打ち込んでみるとたくさんのツイートがヒットしました。自分もよく考える問いの一つですが、誰しもが考えることなんですね。久しぶりに井の中の蛙について考えたきっかけは昨晩ふと目に止まったこのツイートです。
 

 

 ツイート主さんの言う通り本当に考えさせられます。つまり、インターネットが普及した現代社会では自分の上位互換はすぐ見つかるわけですから、井の中の蛙は簡単に大海を知ることができるのです。
 「井戸の中に閉じこもり続けた蛙」と「井戸の外の大海を知ってしまった蛙」とどちらがより幸せなのか。このツイートや引用元の書籍をみて、「大海を知ることで劣等感に苛まれたり精神に影響をきたすくらいなら、一生を井戸の中で過ごす蛙の方が幸せだ」と結論づける方も少なからずいらっしゃるでしょう。しかし、別の視点から考えると、大海を知らない井戸の中の蛙は自分の可能性も知ることができないわけです。果たしてこれでも蛙は幸せなのでしょうか?もしかすると、蛙は何らかの分野で卓越した才能の持ち主であったかもしれません。それにもかかわらず、その才能を発揮することなく狭い世界の中で一生を終える、これが本当に幸せなのでしょうか?
 もちろん蛙には何の才能も無かったかもしれません。それは大海を知るまでわからないのです。この問いを難しいものにしている所以は「蛙は大海を知って初めて自分の非凡さ/凡庸さを知ることができる」という点にあると思います。この世に生を受けた瞬間に自分が非凡な才をもつ者なのだと自覚できるのならば井戸を飛び出し大海に乗り出すのが幸福でしょう。逆に自らの凡庸さを自覚したのなら井戸に閉じこもれば良いのです。しかし、非凡さも凡庸さも大海に出ないことにはわかり得ないのです。
 
 最近よくみる話題に、地方格差というものがあります。地方格差にも色々ありますが一例として、地方から大学進学をきっかけに上京した若者たちが都会育ちの学生との情報格差や教育格差に愕然とするといった話です。先程までの話とは少し異なるかもしれませんが、彼らは上京せず地元で過ごすほうが幸せだったのでしょうか?
 
 僕はこのところ、自分の人生の意味や幸福というのは一生を終えての結果から帰結として導かれるのであって、進行中の生を歩んでいる自分たちには知覚し得ないことのような気がしているのです。知覚し得ないからといって考えない理由にはならないのでこれからもずっと答えのない問いと格闘し、もがき苦しみながら人生を歩むことしか不器用な僕にはできないのです。
 
 大海の片鱗を目にし己の凡庸なるところを知った愚かで哀れな井蛙の哀しき唄を聞いて下さりありがとうございました。
 
 
 
※追伸(そもそもブログって追伸を書いていいのか?)
 深夜3時に書いた結果、醜いポエムを生成してしまいました。。
 前回よりも改行を多くしたのですがどちらがいいんでしょうか。人生と同じくらいブログも難しいです(比較構文風)。

有言実行(ありことのさねゆき)

 今この記事を執筆しながら『電脳コイル』というアニメを見ているんですが、とても面白いです。2007年のアニメです。そのため、目の大きさや瞳の描き方・影のつけ方・色使い(色使いは時代とは関係ないかも?)等々、2021年現在のアニメとは表現技法が異なる点がいくらかあるように感じます。まだ見終えていませんが、個人的に面白いと感じた点をいくつか列挙したいと思います。

 まず、話数がちょうど良い。全26話。アニメというものはテンポが悪くてもダメですし、勇み足になってもいけません。読者がある程度スピードを調節できる漫画や本などの媒体にはない映像作品ならではの難しいところです。いつまでも「前回のあらすじ」やアニメオリジナルの番外編ばかり見せられては25分の放送でも10分しか見ていないような気分になります(もちろん素晴らしいものもありますが、ここではただ話を引き延ばそうとしているものを指します。)。詰め込みすぎのアニメも極めて残念です。面白いアニメであればあるほど「もう少し話数を割いて欲しかった…」となるのです。すなわち、アニメの話数とは描きたいものをすべて描ききるために過不足ないものにせねばならず、アニメづくりとはその究極の一点を目指す営みにほかならないのです。以上の点において電脳コイルは話数の調整――バランス感覚に優れた作品です。

 第二に、――これは前項の点にも関わりますが――展開の緩急のつけ方・伏線の張り方が巧みです。序盤にしっかりと話数を使い日常を描きながらアクセントのように伏線を散りばめ、中盤~終盤にかけてギアを上げていく、、上手いですね。まだ最後まで見てないんですけどね。僕の人生も序盤で話数を使っている段階なのであって、ただ無為な日々を過ごしているわけではないと信じたいです…。

 

 さて、いかがでしたか?

 

 とりあえず、打消し線と「いかがでしたか」を書くことでブログを書いたという気分になりました。まだまだ書くことはできるのですが、ここに記すには余白が小さすぎるのでこのあたりで終わりにします。最後にこのような執筆の機会をくださった友人のO氏ならびにはてなブログに厚く御礼申し上げます。