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井蛙の幸福

 
 「井の中の蛙  幸せ」
 
 Twitterの検索窓にこのワードを打ち込んでみるとたくさんのツイートがヒットしました。自分もよく考える問いの一つですが、誰しもが考えることなんですね。久しぶりに井の中の蛙について考えたきっかけは昨晩ふと目に止まったこのツイートです。
 

 

 ツイート主さんの言う通り本当に考えさせられます。つまり、インターネットが普及した現代社会では自分の上位互換はすぐ見つかるわけですから、井の中の蛙は簡単に大海を知ることができるのです。
 「井戸の中に閉じこもり続けた蛙」と「井戸の外の大海を知ってしまった蛙」とどちらがより幸せなのか。このツイートや引用元の書籍をみて、「大海を知ることで劣等感に苛まれたり精神に影響をきたすくらいなら、一生を井戸の中で過ごす蛙の方が幸せだ」と結論づける方も少なからずいらっしゃるでしょう。しかし、別の視点から考えると、大海を知らない井戸の中の蛙は自分の可能性も知ることができないわけです。果たしてこれでも蛙は幸せなのでしょうか?もしかすると、蛙は何らかの分野で卓越した才能の持ち主であったかもしれません。それにもかかわらず、その才能を発揮することなく狭い世界の中で一生を終える、これが本当に幸せなのでしょうか?
 もちろん蛙には何の才能も無かったかもしれません。それは大海を知るまでわからないのです。この問いを難しいものにしている所以は「蛙は大海を知って初めて自分の非凡さ/凡庸さを知ることができる」という点にあると思います。この世に生を受けた瞬間に自分が非凡な才をもつ者なのだと自覚できるのならば井戸を飛び出し大海に乗り出すのが幸福でしょう。逆に自らの凡庸さを自覚したのなら井戸に閉じこもれば良いのです。しかし、非凡さも凡庸さも大海に出ないことにはわかり得ないのです。
 
 最近よくみる話題に、地方格差というものがあります。地方格差にも色々ありますが一例として、地方から大学進学をきっかけに上京した若者たちが都会育ちの学生との情報格差や教育格差に愕然とするといった話です。先程までの話とは少し異なるかもしれませんが、彼らは上京せず地元で過ごすほうが幸せだったのでしょうか?
 
 僕はこのところ、自分の人生の意味や幸福というのは一生を終えての結果から帰結として導かれるのであって、進行中の生を歩んでいる自分たちには知覚し得ないことのような気がしているのです。知覚し得ないからといって考えない理由にはならないのでこれからもずっと答えのない問いと格闘し、もがき苦しみながら人生を歩むことしか不器用な僕にはできないのです。
 
 大海の片鱗を目にし己の凡庸なるところを知った愚かで哀れな井蛙の哀しき唄を聞いて下さりありがとうございました。
 
 
 
※追伸(そもそもブログって追伸を書いていいのか?)
 深夜3時に書いた結果、醜いポエムを生成してしまいました。。
 前回よりも改行を多くしたのですがどちらがいいんでしょうか。人生と同じくらいブログも難しいです(比較構文風)。